「土用の丑の日とウナギ」検証

このページでは以下の事について検証していくものとする。

以下の重要なキーワードについては強調表示するものとする。また、キーワードについて概説を載せるが、各資料において内容に異同がある事に注意する事。

明治以前

丈我老圃『天保佳話』、天保8年

土用鰻鱺

土用ノ丑ノ日ニ鰻鱺を喫フ事ハ鰻鱺ハ夏瘦ヲ療スルモノナレバナリ殊トニ丑ハ土ニ属ス土用中ノ丑ノ日ハ両土相ヒ乗ズルモノナリ万葉ニ億良等ニ我モノ申ス夏痩ニヨシト、イフナルムナギメシマセト、アレハ古シヱヨリ夏瘦ニハ鰻ヲ食フ事ト見ヱタリウム相ヒ通ズ

『天保佳話』は丈我老圃によって書かれ天保8(1837)に刊行された本である(天保10年に安穴道人によって書かれた同名の書とは別物)。

この中の土用鰻鱺(ドヨウウナギ)の項にて「土用の丑の日に鰻を食べるのは夏痩せに効く」「丑は土に属し、同じく土に属する土用の丑の日は二つの土が相乗する」「万葉集に夏瘦せ対策に鰻を召し上がりなさいという内容の和歌がある」という内容が記されている。

明治(1868年10月23日~1912年7月30日)

大橋又太郎 編『家政案内』、博文館、1895年8月20日印刷発行

食物

七月 三伏の夏の日に鰻を食ふこと何時頃よりの習風(ならはし)なるらむ、萬葉集に、石麿といふ人の瘦たるを嘲ける歌とて、「石麿にわれ物まをす夏瘦によきといふ物ぞむなき(鰻)とり食せ」とあれば古き事なり、土用鰻とて丑の日に食ふことは平賀源内の思ひつきなりとか

(66頁)

土用の丑の日の鰻食いについて「平賀源内の思ひつきなりとか」と伝聞調で触れられている。

『頓智と滑稽』第五号、頓智と滑稽発行所、1895年9月10日発行

編者 讃岐平民 葉下窟主人「平賀源内(三)」

土用丑の日の鰻

左の一項は本年八月二十日「發行文藝俱楽部」第八編雑録中にありしものなり蓋し他の新聞より抜録せしものなるべし

風來山人平賀源内の其昔神田お玉ヶ池に住みし頃隣家に鰻屋あり極貧自らを濟ふ能はざるより一日源内に向ひて金儲けの法を尋ねたる折節土用の子の日なりし 直ちに「明日うしの日」と書きて與へ之を店頭に貼らせたり之を見し人々其故を尋ぬるに鰻屋は土用の丑の日に鰻を食へば藥餌に勝るの効あるよしを語り當日には又「今日うしの日」の札を書き與へて大儲けを爲し是より後の鰻屋は只わけもなく土用丑の日に斯る札を掲ぐる習慣となり大當りを取りしは皆源内の賜なりといふが頃日神田中猿樂町の畫家丸中金峰氏の許へ源内肖像の揮毫を依賴せし人あり参考にもと源内の此眞筆を携へ來りしよし偖是が出來の上は府下鰻屋の面々は源内祭を催すとなむ

(8頁)

国立国会図書館デジタルコレクションの「送信サービス」資料を引用した

この記事では引用元として明治28年8月20日発行の「文藝俱楽部」(原文で「發行文藝俱楽部」とあるのは「」の位置の誤りと思われる)が挙げられていて、その「文藝倶楽部」の記述は他の新聞からの抜粋ではないかと推測している。

記事では平賀源内が「明日うしの日」「今日うしの日」と鰻屋の店先に貼らせたというお馴染みのエピソードが綴られているが、終わりの方で神田の丸中金峰なる画家の所に持ち込まれたという「源内の此眞筆」(鰻屋に貼らせた札の事?)とか、その眞筆が出て来た事をきっかけとして鰻屋が源内祭をするつもりだとかいう内容の記述は興味深い。この元記事が鰻屋のキャンペーンによるものではないかという可能性が出てくるからである。

『骨董雑誌』第二編第四号、骨董雑誌社、1897年7月31日発行

集古百種

平賀源内書鰻屋の張札

一昨年夏頃の東京新聞に左の記事見えたり

風來山人平賀源内の其昔神田お玉ヶ池に住みし頃隣家に鰻屋あり極貧自らを濟ふ能はざるより一日源内に向ひて金儲けの法を尋ねたる折節土用の子の日なりし直に「明日うしの日」と書きて與へ之を店頭に貼せたり之を見し人々其故を尋ぬるに鰻屋は土用の丑の日に鰻を食へば藥餌に勝るの効あるよしを語り當日には又「今日うしの日」の札を書き與へて大儲けを爲し是より後の鰻屋は只わけもなく土用丑の日に斯る札を掲ぐる習慣となり大當りを取りしは皆源内の賜なりといふが頃日(このごろ)神田中猿樂町の畫家丸中金峰氏の許へ源内肖像の揮毫を依賴せし人あり参考にもと源内の此眞筆を携へ來りしよし偖是が出來の上は府下鰻屋の面々は源内祭を催すとなむ

(42頁)

国立国会図書館デジタルコレクションの「送信サービス」資料を引用した

『頓智と滑稽』第五号のそれと同じ内容(一部送り仮名等の違いあり)であるが引用元として「一昨年夏頃(1895年)の東京新聞(2023年現在発行の「東京新聞」とは異なる)」が挙げられている。『頓知と滑稽』の記事にあった「他の新聞」が東京新聞の事であるかは不明。

前田曙山 (次郎) 編、石橋忍月 (友吉) 補『東洋大都会』、石橋友吉、1898年5月15日発行

第六十三 鰻屋

東京の慣習として、盛夏土用の丑の日に之を食せば流汗目に入らずとて、家々必ず之を食す、其濫觴は昔神田川といへる鰻屋(今の神田川なり)の家道稍衰へたる時、其花客なる太田蜀山翁、戯れに筆を執りて、大なる紙に「明日土用丑の日」と書して、之を店際に掲げしむ、時恰も土用子の日なり主人其故を知らず、之を蜀山に問ふ、蜀山答へて曰く、我も又其故を知らず、然れども汝家道の衰頽したるを歎ずるが故に、我之を挽回せしめんとして、斯くは謀りしなり、今此張札をなさば人之を怪しみて必らず汝の店に問ふべし、其折汝は店の者をして、土用の丑の日に鰻を食せば、流汗目に入らず、悪疫感染せず、これ古來の說なりと答へよと、主人大に喜ぶ、果せる哉、翌日は四方より來りて鰻を註文する者多く、之より家道爲に回復す、今に至るまで土用の丑の日には、家々必らず鰻を食するに至る、小事と雖も蜀山の奇才を知るべし、或はいふ蜀山にあらず、平賀源内なりと、其孰れなるにもせよ、丑の日の由來は此の如きものなり。

(139-140頁)

土用の丑の日の鰻食いが「東京の慣習」として紹介され、その慣習の始まりは太田蜀山人による旨が書かれている。また、最後の方に異説として平賀源内の名前が挙げられている。

数理学館編輯部 編『通俗世界節用』、数理学館、1899年9月16日発行

迷言盲語

〇土用の丑の日に鰻を食ふと良藥となる。

(152頁)

この本は世界各国の様々な事物・組織・制度・文字・歴史その他について幅広くまとめられた書物である。その中の迷言盲語(項目冒頭に「何れより來るを知らずあたるもあり當らぬもあるべし」とある)の項にて土用の丑の日の鰻が扱われている。

経済雑誌社 編『日本社会事彙.上巻』、経済雑誌社、1890年10月3日発行、1901年7月20日再版発行

ウ之部

ウナギ

【うし鰻】夏の土用の丑の日に鰻を食ふ事。典故ありに非ず。一説にいふ往古土用中丑の日に鰻を食すれば。虚空蔵菩薩の忌諱に觸ると稱し。普通この日は食はず。ゆゑにこの日は廉價に食し得らるゝゆゑ貧人の求むるところとなり。諸店とも貧人の注意を惹くために。紙牌を掲けしもの。今は丑の日に食ふべきものと解さるゝに至れりと。或はいふ往時ある鰻屋の夏時來客乏しく。鰻の半は死して損耗なるに。一策を案じ。土用丑の日に鰻魚を食はゞ。夏季暑熱に冒さるゝ事なしと賣出したるが。世に評判されてこの日食用することゝなりしと。蓋し土用の入りに油ある品を食するをよしとする類より。または下記の万葉抔より思ひつきしものならむ。但し大黒屋。和田平の如き名ある家にては特にこの日は休業するを例とす。さて夏痩には鰻鱺よろしといへるは。萬葉集巻十六。嗤咲痩人歌(大伴家持)石麻呂爾吾物申。夏痩爾吉跡云物曽武奈伎取食。(ムナギはウナギなり)とあり」

(182頁)

この本は昔から現代に至るまでの日本に現存する事物の源流・沿革の概略について記した本である。発行されたのは明治23(1890)年の事だが、今回調べた版は明治34(1901)年に改訂増補され再版されたものなので本採録データは再版発行日を基準に配置している。

この書で、虚空蔵菩薩の忌諱に由来するとする説・夏に客が来なくて鰻が死ぬので鰻が暑熱に効くと売りだしたとする説(考案者は「ある鰻屋」)が挙げられている。

その後に(本項目の担当者により)「土用の入りに油ものを食べるのがよいとする話の類か、または大伴家持の和歌から着想を得たのであろう」と推測されている。

『月刊食道楽』第一巻第三号、有楽社、1905年7月1日発行

清九郎「妙なうまい物案内(其三)」

暑中の藥食ひ

土用の丑の日に鰻を食へば云々と云ふのは、平賀鳩溪が懇意な鰻屋に儲けさせてやらうとの考から云ひ出したものだと、何やらに書いてあッたが、大概まァ其んな事だらう。

(31頁)

国立国会図書館デジタルコレクションの「送信サービス」資料を引用した

出典については「何やら書いてあッた」とだけある。なお、平賀鳩渓(ひらがきゅうけい)とは平賀源内が用いていた画号である。

『月刊食道楽』第二巻第八号、有楽社、1906年7月1日発行

ろくせん「鰻料理の話」

土用中の鰻

盛夏土用中の丑の日に、鰻を食するの慣例は、何時の頃から始まつた事か、其の濫觴として傳へらるゝ所の一説に據ると、外神田の鰻屋神田川が、其の昔家道の衰へんとした時、同家の贔屓客であつた太田蜀山が、家道挽回の一策として、大きな紙に「明日土用丑の日」の七字を大書して與へた。それが恰も土用中の子の日であつたのだ。而して蜀山が神田川の主人に、此紙牌を店頭に出して置け、思ふに人人が必らず妙に考へて譯を聞きに來るに違ひない、其の時には、土用中丑の日に鰻を食へば、惡疫に感染せず、汗が目に入らない、と云ふ古來の説だと答へろ、と云つた。蜀山の此奇策は、果せる哉大當りで、神田川は、之れに依つて家道を回復した。それからして、特に丑の日に鰻を食することが始まつたとある。また他の一説には、外神田の和泉橋通りに在つた春木と云ふ鰻屋が、丑の日に調理した鰻は、之れ亦前記の如き効能があると云つて、賣出したのが始まりだとも云ふ。丑の日の由來は、何れが實説か分らぬが、夏日鰻を喰へば、夏痩せをせぬと云つて、人々暑中特に鰻を食したことは、大昔から一般に行はれたものだと云ふことである。

(11-12頁)

国立国会図書館デジタルコレクションの「送信サービス」資料を引用した

土用の丑の日に鰻を食べる慣例について、その濫觴(起源)について外神田の鰻屋神田川で太田蜀山人が繁盛の策を授けたという説と、同じく外神田の和泉橋通りにある春木という鰻屋が独自に土用の丑の日に鰻を食べる事の効能をうたって売り込んだという説の2つを紹介している。どちらが実際の説なのかはわからないとしている。

樋口勘治郎、濱幸次郎、矢島喜源次 共著『理科教授資料:普通教育 上巻』、鍾美堂、1906年10月8日発行

動物篇

鰻・鰌・鯰

肉は其の味の佳美なるのみならず、頗る脂肪分に富み且つ蛋白質を含むこと多し。其の骨をぬきて、焼きたるものは鰻の蒲焼と稱し世人の好んで食する處なり。殊に世俗土用鰻と稱し、土用丑の日には必ず之れを食ふ慣習あり。傳へ云ふ土用鰻は徳川の末葉彼の狂歌師なる蜀山人の戯より創りたりと。今や我國一般世俗の風習となれり。

(464頁)

土用の丑の日の鰻食いが太田蜀山人の戯れによるものという「伝え」が紹介されている。

奥村繫次郎『家庭に於ける吉凶百談』、博文館、1908年11月22日発行

第四章 食物に對する迷信

(三)病氣を癒す爲に食する食物

○丑の日の鰻飯 夏瘦にならぬ咒といふて夏の土用の丑の日には必ず鰻を喰ふいふと迷信が古來より行はれてゐる、それには恁ふいふ傳説が『天保佳話』といふ書に丑の日の鰻のことが左の如く記載(かい)てある

丑は土に属す、土用中の丑の日は兩土相ひ乗ずるものなり………

としてあるから殊に土用の丑の日を擇定した譯だ、尤も鰻は夏季(なつ)が眞味(しん)の魚で、それに土用と來ては海洋は鹹鹽(にがしほ)に爲るから大不漁に爲る、仍で泥臭い河魚が時めく時代となるので鯉の生作りや鯰の泥龜煎(すっぽんに)、乃至は鰌の鶏卵とじが珍重される其所へ以て來て『萬葉集』の中に、

我もの申す夏瘦に、よしといふなるむなぎめしませ

といふ歌が夏瘦の藥になるのだと提燈持ちをしてゐるからである

(60-61頁)

夏の土用の丑の日に鰻を食う風習が何故その日なのかについて『天保佳話』の記述がその理由として引用されている。

ただ筆者曰く夏の土用は海は苦潮で不漁となり、かわりに川魚の料理が珍重される時期であるとの事で、そんな中でもあえて鰻が食べられている理由としてさらに『万葉集』の大伴家持の和歌が引用されている。

中谷無涯 編『新脩歳時記. 夏の部』、俳書堂、1909年6月1日発行

ドヨウノウシノヒノウナギ(人事)土用丑日の鰻

東京にては夏土用丑の日に鰻を食ふ。これ別に典故あるに非ず。一說に往古土用中丑の日に鰻を食すれば虚空藏菩薩の忌諱に觸ると稱し、此日は食はず、故に此日は廉價に食し得らるゝ故貧人の求むるところとなり、諸店とも貧人の注意を惹く爲に紙牌を掲げしが。終に此日鰻を食ふべきものと解せらるゝに至りしなりと。或はいふ往時或鰻屋にて夏時來客少く鰻多く死して損耗なるに、一策を案じ、土用の丑の日鰻を食へば、暑氣に冒さるゝ事なしと賣り出したるが、世間に評判せられて、此日食用することゝなれるなりと。

(579-580頁)

虚空蔵菩薩の忌諱に由来するとする説と、夏に客が来なくて鰻が死んでしまうので鰻が暑気に効くと売りだしたとする説が挙げられている。誰が考案したのかは書かれていない。

角地藤太郎『化学的食養の調和』、角地藤太郎、1910年7月31日発行、1911年1月25日再版発行、1911年5月10日増訂3版

類似けんちん汁

夏期毎朝鰌のみそ汁を食すれば、如何に流汗瀧の如くなるも、決して眼に入ることなし、土用の丑の日に限らず、折々鰻を食するも宜し

(37頁)

夏に毎朝鰌のみそ汁を食べる事や、土用の丑の日に限らず鰻を時々食べる事を推奨している。、

平山蘆江、伊藤みはる『男と女:みやこ講話』、報文館、1911年9月3日発行

蜀山燈籠…蘆江

納戸町の寝呆先生、太田蜀山人は先刻御承知の通り者、いつぞや近所の鰻屋が、夏塲になると鰻の脂がぬけて不味くなる上に暑い所だから誰も〱水物ばかり望んで鰻といふ人がないから不景氣で干乾びて了ひますが何か先生のお力で鰻が土用の中にでも賣れるやうな工夫はありますまいかと云ふのをよし來た目の廻るほど忙しがらせてやらうと引受けまして頻りと暦を繰つて居ましたが西の内を三枚ばかり繼がせて充分に墨を含ませた筆で達筆に「明日土用の丑」と書いた、尚一枚「今日土用のうし」と二通りにして「サア此奴を丑の日と其前の日に貼り出して置きな」と渡すと鰻屋さん目を圓くして「一體これは何の呪咀(おまじなひ)です」と聞きます「何でも好いからやつて見な」と無理に持たしてやりましたから不承無承でも近所同士自分で頼みながら貼らずに置いては惡いから入口の隅へこつそりと貼り出しますと通りかゝる人が、「あれは蜀山の字だが、鰻屋の門へ土用うしと書いたのは、一體何んな譯があるのだらう」と不審を打ち始めて人集りがしました、すると其中の物識り顏が「あれを知らねえ奴があるものか土用の丑の日に鰻を食ふと惡病を免れるといふ呪唄(まじなひ)だぜ」と云ひ出したので「成るほどさういふ譯か」と誰れしも御幣根性があるから一人入り二人入りこの鰻屋の店は朝の間に客止めといふ景氣になりましたから親爺呆氣に取られながら轉挺舞(てんてこまひ)をして居ります、それ以來土用の丑の日に鰻を食ふといふ習慣が今尚殘った譯です(後略)

(132-134頁)

「土用の丑の日」に鰻を食べるという習慣について大田蜀山人の仕掛けによる旨が書かれている。

若月紫蘭『東京年中行事 下の巻』、春陽堂、1911年12月20日発行

七月暦

土用と鰻

寒中の丑の日には、寒紅の爲に小間物屋が賑い、土用の丑の日には鰻屋が繁盛する。土用の食ひものには鰻の外に蜆の味噌汁と泥鰌汁と浅蜊のすましなんどが珍重される。

土用に鰻を食ふと夏病をせぬとか何とか云ふことの眞僞は兎に角に、其何故に此習慣が起つたかについては色々の説が有る。

其昔蜀山人が、當時名うての鰻屋で有つた『神田川』の衰微に同情して、片肌ぬいで頓智を搾って店の前に『明日土用丑の日』と云ふ大看板を立てさせた。とそれが縁となって『神田川』は、瞬く間に家運を恢復しての大繫昌。一説によると鰌屋の『春木』と云ふのが土用の丑の日に、鰻を壺に入れて地中に埋めたが、幾日たつても腐らなかつた所から、丑の日と鰻と縁が出來て、鰻を食ふやうになつたとも云う。或は又丑寅の年に生れた人は、平生は鰻を喰ふと、守本尊の虚空藏様のお怒りに觸れるとか、金刀比羅様の信者は平生は鰻を禁じられて居るとか云ふのが、土用の丑の日丈は食つても罰があたらぬのだと云ふ説もあれば、反對に此日に鰻を食ふと虚空藏菩薩の忌諱に觸れると云つて、金持は此日は食はず、從って價が安いので、此日は貧民が鰻を喰ふ日と定まり、それが遂に一般に鰻を食ふべき日とせらるゝに至つたと云ふ説もある。何れが確な説かは明かではないが(後略)

(162-164頁)

土用の丑の日の鰻食いの由来について、「太田蜀山人による説」「鰌(どじょう)屋の春木による説」「丑寅年生まれの人は鰻を食べると虚空蔵菩薩の怒りに触れ、金刀比羅様の信者は鰻を禁じられていたが土用の丑の日だけは許されてたから説」「土用の丑の日に鰻を食べるのは虚空蔵菩薩の忌諱に触れるのでその日は鰻が値崩れする。貧しい人が安価でその鰻を食べるようになったのがいつしか世間一般の習慣として広まった…という説」が挙げられている。

この本ではどの説が確かなのかは不明としている。

大正(1912年7月30日~1926年12月25日)

清水晴風『神田の伝説』、神田公論社、1913年10月25日発行

二二 平賀源内

又今日夏の土用の丑の日に、鰻を喰べるといふ習慣の起りは源内の奇才からだといはれて居る。其の當時鰻屋が源内に錢儲(かねまうけ)の話をすると源内は直に筆を執つて『明日丑の日』と大書して主人に之を店頭へ掲げさせ、又『今日丑の日』と認めて當日之れを同じく店頭に出させた。すると果して常に比して十倍の客人があつたとのことである。

(81-82頁)

『神田の伝説』は郷土玩具研究家の清水晴風(1851~1913)が生前に遺した原稿をまとめた本である。その本に平賀源内について取り上げた項目がある。そこに出てくる鰻屋のエピソードが現在確認される限り最古の「土用の丑の日に鰻を食べる風習」と「平賀源内」が結びついた事例である。

(2022年3月24日追記)それより前の平賀源内と土用の丑の日の鰻を結び付ける事例が発見されたので最古云々は取り消し。

中尾清太郎『今日の広告学』、秋田書院、1915年1月1日発行

本論

第一章 廣告の進化

日本最初の文安家―日本で廣告文案者(アド・ライター)の最初の第一人と、私の思つてゐる平賀源内は、いろ〱の發明をして、それを賣り弘めるに、なか〱奇抜な方法を以て試みた。例へば伽羅で製つた菅原櫛を賣り出すのに、當時芳原名代の花魁丁字屋の雛鶴に、それを挿して評判を立てさせたこと、又越歴氣(エレキ)で蚊を捕る器械を造つて、それを當時のハイカラ語のオランダ語のやうに、『マースト・カートル』と名づけて賣出したこと、又夏の土用の丑の日に當意即妙の筆の頭で、『あす丑の日』『けふ丑の日』と書いて神田川の鰻屋に二日續けて貼り出さして千客萬來を取つたこと、それから又清水餅の口上や齒磨漱石香の引札などを書いたこと、それやこれや皆廣告史に入るべき材料であるが、こゝで彼に就て言ふ事は、彼の態度が極めて不眞面目であつたことである。誠に世の中を茶化したやうな彼の物言ひ振りは、決して良い感化を殘したとは言へない。

(24-25頁)

日本最初のコピーライターとして語られる平賀源内の業績の一つとして、土用の丑の日に鰻を食べる習慣を広めたとされるエピソードが入っている。

業績については認めつつも、態度・言動が不真面目である事について著者が批判的なのが興味深い。

岐阜県益田郡 編『岐阜県益田郡誌』、益田郡、1916年発行

第三十二章 人情風俗

第七節 俗信

土用の丑の日に鰻を食ふと病まぬ

(553頁)

第三十二章第七節「俗信」のページに土用の丑の日の鰻食いが収録されている。なお、この節の冒頭では「俗信」なるものについては

人情の質朴なる一面に於ては科學的智識を缺く所多きものあり。從て迷信と認むるもの、古來、其數頗る多し。近時教育の進歩に伴ひ、漸く其愚を悟るに至れりと雖、猶所謂怪力亂神を語るの徒少からず、或は方位·時刻·月日·年齢等の吉凶を稱して旅行·建築·婚儀其他一般事業の施行上に大なる支障を生ぜしめ又は徒らに加持に依賴して、當爲の處置を愆り、遂に災禍をして益々大ならしむるものの如き其例亦尠しとせず。今左に郡内に於て比較的廣く稱へらるる俗信の内、最著を列擧す。

(552頁)

とその弊害が強く説かれている。「土用の丑の日の鰻」もその弊害たる古い俗信・迷信の一つであると『岐阜県益田郡誌』では認識されている。

實業山人『クラーク日記』、佐藤出版部、1916年1月1日発行

第五 懸命日記《E西洋雜貨店小僧 駒吉》

(八)商略の元祖は蜀山人乎

昨日が土用に入つたばかりだが、今日は早や丑の日だ。丑の日は鰻を食ふものださうだが、小僧の身分に鰻飯もチト贅澤過ぎるといふ風で、小僧になつて以來五年も經つが、いまだ丑の日に鰻を食つたことがなかつたが、良さん(勸工場の方の番頭)のおごりで、畫食に鰻丼を御馳走になる。實に旨い。將來に立派な商人になつて、金が廻るようになつたら、毎日のやうに食つて見たいと思つた。

良さんに、お禮を云つて『なぜ土用の丑の日に鰻を食うのですか』と聞くと、良さんは、楊枝をつかひながら『なぜといふ理由も知らぬが、何でも土用の丑の日に是を食ふと、汗が目の中へ入らぬといふことだ。その濫觴は、昔神田川といふ鰻屋····うむ、左樣、今の神田川····が、甚く衰へて困つた時、その得意客の太田蜀山翁戯れに筆を執つて、明日土用丑の日と、大きな紙へ以て行つて書きつけて、その「明日土用丑の日」を店の前へ貼らした。丁度その日は土用の子の日だつた。主人は其理由が分らぬから、どういふ理由ですかと聞くと、蜀山は答へて、私もどんな理由か知らぬと云つた。主人は、これは變だと思つて不思議な顔をすると、蜀山は、につこりとして、お前の家がはやらなくつて、大分弱つたとこぼしてるから、私が之をはやらすやうにしてやりたいと思つて、こんなことをしたのだ。今、この張札を見て、人が不思議がつて來るだらうが、來たならば、土用の丑の日に鰻を食ふと、流汗が眼の中へ入らぬ、惡疫が感染らぬ、これは古からあることだと云へと言つた。主人は是を聞いて非常に喜んだ。で、果して、その翌日になつて、方々から注文があつて、それから又、非常にはやるやうになつたといふことだ。それから、習慣のやうになつて、何所の家でも、土用の丑の日には鰻を食ふのであるさうな。

實に蜀山といふ人は奇才のある人だ。或は商略の元祖かも知れん。又或は蜀山でなく、風來山人平賀源内だといふが、どつちにしても、丑の日の由來は、こんな次第だ』と、おもしろく話して吳れた。

(71-74頁)

土用の丑の日に鰻を食う理由がわからない小僧さんは番頭さんにその理由を尋ねる。すると番頭さんはその風習の始まりとされる太田蜀山人のエピソードについて語り、最後に異説として平賀源内の名前も挙げている。

松山亮蔵『生物界之智嚢. 動物篇』、中興館書店、1916年2月21日発行

第一篇 動物と食料

第三章 魚肉に關すること

(土用の丑の日に、なぜ鰻を食べるか)此の事に就いては、色々の說がある。

(一)平賀源内の說によると、之には別に由來はない。丑の日の鰻と廣告すれば、人々が珍しがつて食べるだらうと、何人かが始めたのだと云ふ。

(二)一說によれば、夏季は一般に身體が衰弱するから、丑の日丑の日に鰻を食べれば精氣をつけて宜しいので、斯くなつたと云ふ。

(三)又或る人は、夏季土用時分は、鰻に一番油がのつて旨い時だから、此の時期に食べるが宜いと云ふのだとも云ふ。

(72頁)

平賀源内の名前が出ているが、ここの記述では彼は「土用の丑の日の鰻」について説を述べただけに留まっている。

私立多紀郡教育会 編『多紀郡風俗調査』、私立多紀郡教育会、1916年6月5日発行

第一 年中行事

七月、土用

まづ土用に入る時に餅を食へば運が強くなるとて、餡餅(「餡」の字は旁部が「稻」の旁部になったもの)を作つて食ふ家が多く、町内や其附近では之れを賣行ものも多い。

土用中にある丑の日は「土用の丑の日」とて此の日鰻を食すれば腹の病氣を免れるといひ、其價も平日より著しく高い。鰻の代りに泥鰌を食ひ、鮒を食ひ、又何なりとも魚を食へば藥になるといつて居る。

土用の丑の日に藥湯に入れば疫病を免れるとて、蓼湯を沸かして平日の入浴時刻よりも早く之れに入る家があり、又百草湯にする家もあり、略して水浴にする家もある。

(45頁)

土用の丑の日にこれをすると運が強くなるとか病気を免れるとされる慣習が書き並べられていて、その中に鰻食いが腹の病気を免れるものとして書かれている(泥鰌、鮒、その他魚なら何でも可らしい)。特にその起源は挙げられてはいない。

国書刊行会編『鼠璞十種第二』、国書刊行会、1916年7月25日発行

明和誌

1916年に国書刊行会より発行された『鼠璞十種』は三田村鳶魚が色々な随筆雑著を集めてまとめた叢書である。その2冊目となる『鼠璞十種第二』に『明和誌』という本が収録されている。

『明和誌』は白峯院によって書かれた本で、成立時期は序文によると「文政五年(1822)壬午夏六月」とある。その内容は

としよりのいらぬ筆をとりて、寶曆の末、明和の頃より文政迄、色々うつりかはる風俗をあらまししるすのみ。

(2頁)

とあるように、宝暦(1751~1764)の末から文政(1818~1831)の初めまでのさまざまな江戸風俗を記したものとなっている。

その中に土用の丑の日に鰻を食べる習慣についての記述が出てくる。

一、近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す。寒暑ともに家毎になす。安永天明の頃よりはじまる

(15頁)

ただし「寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日に~」とあるので冬の土用の丑の日の事である。もっとも「寒暑ともに」とあるので夏にも同様の事を行っていたものと思われるが主軸は冬の方である。なお、ここでは平賀源内の名前は出てこない。

土生敦『通俗衛生』、来島正時、1916年11月25日発行

全身病ト眼病

其ノ俗間療法マジナイノ起源ヲ調ブレバ詮ナキコトノミニテ一例ヲ申セバ昔平賀源内(福内鬼外)ト稱スル豪傑アリテ或時知己ニ鰻屋アリシガ其ノ鰻屋甚ダ營業振ハザリシニ源内ノ家ニ來テ先生ハ智惠者ナルガ何トカ商賣ノ流行スル工夫ナキヤト問ヒシニ源内答ヘテ曰ク明日ハ何ノ日ナリシヤト鰻屋ニ問ヒシニ丑ノ日ナリト答ヘケレバ源内申ス様明朝ニ至リナバ今日丑ノ日ト大文字ニテ記シテ目ニ付クヨウ看板ヲ出スベシ而シテ家人ハサモ忙ハシキ様ニタスキ掛ニテ威勢ヨク働クベシ尚今日ヨリ明日丑ノ日ト記シ置カバ一層宜シカルベシト申セシニ鰻屋問ヒテ曰ク先生是レハ何事ニテ候カト尋ネシニ何ノ譯ニテモナシ人若シ丑ノ日ノ謂ヲ問ヒナバ丑ノ日に鰻ヲ食スレバ其ノ年ハ病氣ニナラヌ暑サニハ中ラヌト申スベシト教ヘシニ鰻屋其ノ通リニナシタリシニ果シテ門前ニ人群集シテ其ノ意ヲ問フニ源内先生ノ教ヘノ如ク答ヘシガ頗ル繁昌セシトナリ先以テ土用ノ丑ノ日モ鰻ヲ食スル習慣アリ先ヅコンナ次第ナリ

(89-90頁)

日本の民間療法の一例として平賀源内が土用の丑の日に鰻屋を流行られたとされる逸話が持ち出されている。

加藤美倫『是丈は心得おくべし : 最新商略商業常識』、誠文堂、1919年10月30日発行

第四 廣告に就ても是丈は心得おくべし

一 廣告好きと廣告嫌ひ

この中の「知らずにやってゐる廣告」という項にて、中尾清太郎(『今日の広告学』の著者)の語った内容が以下のように引用されている。

中尾清太郎氏が面白い事を云つていた。大體かうだ。

或る西洋の大學で、一人の新入生が醫學の教授に向つて「先生!酸素の發見される前まで、人間は何を呼吸してゐたのですか」と質問したといふ笑ひ話がある。これと同様で、時代が進んでゐても、新時代の圏外に取残されてゐる商人實務家は、廣告に對して此新入生と同様な幼稚な考えを持つてゐる。彼等は廣告を以て、全く新しい企て、全く新しい金の使ひ方とばかり考えてゐる。丁度幾百千年來酸素の中に生きてゐた人間が、酸素のあることを氣附かなかつたやうに、彼等は廣告のお蔭で直接間接の利益を占めて來たことを知らずにゐたのである。

それを明かに知り、且つ更に大いに之を利用しようといふ事になつたのは極近年のことである。これは全く商人實務家の覚醒である。廣告は近年に初まつたものでなく昔からある。日本などにも昔からあつた。かの平賀源内の如き、いろ〱の發明をしてそれを賣り弘める爲に、なか〱奇抜な方法を試みたものだ。例へば伽羅で作つた菅原櫛を賣り出すのに、當時吉原名代の花魁丁字屋の雛鶴に、それを挿して評判を立てさせたといふ如き、又越歴氣(エレキ)で蚊を捕る器械を造つて、それを當時のハイカラ語のオランダ語のやうに『マースト・カートル』と名づけて賣出したといふ如き、又夏の土用の丑の日に當意即妙の筆のさきで『あす丑の日』『けふ丑の日』と書いて鰻屋神田川に二日續けて貼り出さして千客萬來をとつたといふ如き皆それである。

然し廣告が今日の如く商賣の樞要となるやうになつたのは、極く近來のことで、まだ〱日本などには、この廣告に関して何等の纒つた観念を持つてゐる者さへある。

(90-92頁)

この引用の中に平賀源内が土用の丑の日の鰻食いを流行らせたとされる話が含まれている。

引用された中尾清太郎の話は『今日の広告学』では「第一章 廣告の進化」の「無自覚の廣告(21-22頁)」と「日本最初の文案家(24-25頁)」が該当する。

『今日の広告学』についてはこちらも参照の事。

河東郡教育会 編『河東郡誌』、河東郡教育会、1923年10月20日発行

『河東郡誌』は大正12年(1923年)に発行された兵庫県河東郡(社町、加茂村、滝野村、河合村、来住村、市場村、小野町、大部村、福田村、下東条村、中東条村、上東条村、米田村、上福田村、鴨川村 2町13村)の地誌である。「第八篇 風俗」に土用の丑の日の風習についての記述がある。

第八篇 風俗

第一章 年中行事

四〇、土用入。

イ、膓餅 土用の入には土用の入餅(又は膓餅ともいふ)と稱し饀餅を食す。

ロ、土用の丑 土用中丑の日には、鰻を食し湯に入るを喜ぶ風習あり(土用鰻、丑湯といふ)

ハ、土用干 土用中に衣服、調度等の虫ぼしを行ふ者多し。

(472頁)

土用の丑の日に鰻を食べる風習が挙げられている。

第十四章 迷信

一、土用の丑の日にうのつくもの(假へば鰻、うどん等)を食ふと壯健になる。

(532頁)

迷信の章で「うのつくもの」を食べると壮健になるとある。

石川県能美郡 編『石川県能美郡誌』、石川県能美郡、1923年11月発行

第七章 迷信

日取の吉凶

土用の丑の日に鰻を食へば息災延命となる、

(327頁)

土用の丑の日の鰻について記述は「迷信」を扱った第七章に収録されている。この章の冒頭で迷信について

本郡には白山麓の如き僻陬の地多きを以て、迷信の風行はるゝもの尚尠からず、宜しく教育の力によりて一掃し去らんことを要す、

(323頁)

と記述している。教訓としての意義があるとされる迷信についても、今日においては直接理を説いて諒解させるべきであるとしている。

「土用の丑の日の鰻」が能美郡誌の編纂者にとって克服すべき古い迷信の一つとして認識されている事がわかる。

額田郡教育会 編『三河国額田郡誌』、額田郡、1924年3月20日発行

第十編 風俗

第六章 年中行事

土用入 各地の瀧開き。土用丑の日は鰻を食ひ、土用餅土用甘酒作らる。

(618頁)

土用の丑の日の鰻食いについては第十編第六章「年中行事」の七月行事として収録されているが、この章の冒頭では年中行事について、

久しき歳月の慣習に養はれたる地方人の長い因襲を棄てるは心苦しき事ならん。明治聖代を經大正十二年の今日一般住民は未だ陰暦を脱せず。太陽暦を以て行はるゝは官公の行事及一部分の町家に過ぎず。舊暦によれる四季折節の行事と風物とは傳承の力に依る者多しと雖も亦捨て難き趣あり。 記載の行事は官公の行事は太陽暦、民間行事は凡て陰暦の月日と見るべし。

(614頁)

とあり、年中行事が「地方人の長い因襲」として扱われて、土用の丑の日の鰻食いもそれに含まれている事がわかる。

木下謙次郎『美味求真』、啓成社、1925年1月8日発行

東京人は土用の丑の日に、鰻を食すれば補精の效ありと稱し、此の日が鰻のシユンたるべき鰻デーの如く心得、多く鰻を食ふ。當日は鰻屋の前には必ず「今日は丑」との大看板を掲出するを常とせり。併し土用は無論鰻のシユンに非ず。丑の日と鰻とは何等因縁なきものなるが、丑の日が如何にも鰻デーなるかの如くに云はるゝ理由は、或る書籍に、「平賀源内性鰻を好みしが、かつて出入の鰻屋より看板の潤筆を依賴されたる時、奇才縱橫の先生の事とて、何ぞ奇拔なる思ひ付きにて奇利を博せしめんものと一考の後、恰も其の日が土用中の丑の日なりしかば、やをら筆執り揚げ墨痕鮮やかに「今日は丑」とものし早速此の大看板を掲出したりしが、何が扨て當時聲名を一世に馳せたる源内先生の揮毫とて、大に市人の注意を惹き、先生の事なれば丑の日と鰻は何ぞ深き關係あるべきを思ひ、案外の大評判となり、忽ち門前市を爲したりと云ふ。之に味を占めたる此の店は翌年の同じき日、又同じ看板を店頭に掲げて前年にも勝れる繁昌を見たりしが、江戸中の蒲燒屋も、漸次之を習ふに至れり。されば土用の丑の日に鰻屋の繁昌するは實に源内先生の賜なり」云々とあり。聊か穿ち過ぎて落語家流の一笑話たるを思はしむ。我國にては鰻は昔より貴ばれ、且つ身體の羸痩(るいそう)を醫するに特效ありとせらる。寧樂(なら)時代大伴家持の歌に、

石麿に吾物申す夏痩せに よしと云ふもの鰻とり食はせ

とあり。源内先生此の歌を思ひ浮べ、當意卽妙夏痩せの文句にこと寄せて、土用丑とものせられたるなるか否か。右の次第なれば鰻のシユンは他の魚類の如く、特別なる注意を加ふるに及ばす。四季とも脂肪に富みたる滋味ありとす。

(中略)

上方式鰻の裂き方は東京流の如く背よりせずして、腹より裂くものなり。兩者孰れを可とするかと云ふに、鰻の脂肪と肉味は、肛門より以下尻尾の方、腹の方に片寄れるものなれば、腹より裂きて味最美の處に刀を入れんよりは、此處を避けて背より裂く方然るべしと考へらる。

(606-607、612頁)

「東京人」が土用の丑の日に鰻を食べる事について、著者はその理由として「或る書籍」から平賀源内説を引用している。

引用後に「聊か穿ち過ぎて落語家流の一笑話たるを思はしむ」と評し、続けて著者は大伴家持(奈良時代の歌人)が鰻食いについて詠んだ和歌を引用して、平賀源内はこの歌を元に「土用の丑の日の鰻食い」を思い付いたのだろうか?と考察している。その後の文の流れがつかみづらいが土用丑と鰻の本来の旬は無関係なのに大評判なので、鰻はいつ食べても美味いという事であろうか?

山形商業会議所 編『山形経済志料 第2集』、山形商業会議所、1925年2月5日発行

土用鰻の事 柴田彦兵衛氏談

各地大抵相似てる點があつて、丑の日には土用丑とて鰻の蒲焼を食ふのが習慣となつてゐる、山形地方も各地の例に洩れず昔から此習慣があつたものと思はれるので、物産陳列場裏通りの八(○に漢字の「八」)本店主人柴田彦兵衛氏を訪ねて興味ある談話を聴いた。氏は本年七十歳の高齢だが元氣钁礫、往時を追憶しつゝ語る『自分の稼業は父の定治が始めたもので私と二代である、父の話に依れば天保年間(今より九十年前)以前には丑の日になつたとて別に鰻を食べるやうな事はなく、商賣は至て閑散なものであつた、それが天保年間以來弗々賣れるやうになり、天保の末弘化嘉永年間には最も繁昌し、土用の丑の日には何んでも彼でも鰻でなければならぬと言ふやうになつた、その由來は詳かでないが丑の日に食べると其年は決して病疫に襲はれぬと傳へられてゐるのだ(以下略)

(35-36頁)

山形の鰻屋主人・柴田彦兵衛翁(当時70才)の談話によると、彦兵衛の父・定治の話として(山形においては)天保年間(1830~1844)には土用の丑の日に鰻を特に食べるという事は無かったが、その後徐々に売れるようになり弘化・嘉永年間(1844~1854)あたりが最も繁盛したとの事。

その由来については「詳かでない」が丑の日に食べると其年は決して病気にならないと伝わっていたとの事である。

湯川玄洋『食養春秋』、文化生活研究会、1925年6月18日発行

八月

一 土用うなぎ

土用に入つて第一の卯の日にうなぎを食へばその夏は惡るい病に罹らぬと言ひ傳へられ第一の卯の日には鰻屋が目を廻す程の大繫昌でとても需用に應じ切れず且つ材料拂底のために騰貴するからといつて大阪の鰻料理は申し合せて當日一薺休業をやるといふ騒ぎである。この言ひ傳へは「う」の日に「う」を喰ふとの語呂合せに過ぎぬものであつて大した論據のあるものではないがこの習慣には面白い利益點がある。

夏分は食慾振はず淡泊なものをのみ望む。これは自然の理でこの要求に逆らつてはいけない。胃腸の活動力も鈍り身體全體がだらけてゐるからさう濃厚な食品を送り込む必要はない。刺身としても鱸や鮒の洗身が最も賞美されるわけである。

然るに食慾の振はぬままに斯様の食品ばかりを二ヶ月も續けてゐると遂には熱量の不足榮養分の缺陥が生じないとも限らぬ。そこで卯の日にかこつけて濃厚極まる蒲焼を食はすと稀れのことでもあるからさして消化器を傷めるにも至らず、急に榮養分を多量に輿へて體力を恢復することになる。殊に夏季萬一傳染病にでも罹るときは頼みにするは體力一つであるからうの日のうなぎは至極適當な習慣である。

(275-276頁)

この本では土用の「丑」の日ではなく土用の「卯」の日に鰻を食べる習慣(特に大阪の?)について書かれている。

「う」の日に「う」のつく物を食べるという語呂合わせに過ぎないが栄養的には理にかなっているとの事。

上田尚『釣り方図解 第2集』、文化生活研究会、1925年8月10日発行

うなぎ

魚の分布とその味

成魚となるには数年を要し、旬からいへばその海に下る十月頃が最も美味とせられる。夏の土用丑に之を食するは、營養補足には何うか知らないが、その頃が旨いに限るのではなくて、あれはいたづら者の平賀源内の宣傳の方がうまかつたのである。

(207頁)

鰻は著者曰く10月頃が最も美味しいとされるのに、夏の土用の丑の日に鰻が食べられるのはその頃が美味いというより「いたづら者の平賀源内」の宣伝によるものと書かれている。

大阪市産業部 編『大阪と食料品 : 大阪市食料品展覧会概要』、大阪市産業部、1926年6月17日発行

参考出品

大阪と鰻

この本は、大正14(1925)年11月25日から同12月10日まで16日間天王寺公園内勧業館(大阪市)にて開催された「大阪市食料品展覧会」について後日詳細にまとめられたものである。

この展覧会では各種食料品の実物展示の他、「参考出品」として食料品に関係する多数の参考資料の展示も行われた。その中の一つである「大阪と鰻」について本書の記述を抜粋すると以下の如し

「しらす」鰻が、川へ溯つて來て、虫や小魚の卵などを、喰つて、漸次大きくなり、上流へ上流へと溯つて、遂には小蝦や、蚯蚓や、螺や、鰌や、鱮等を貪り食つて、充分肥えて、ぐん〱成長してゆく。數年の間には、親魚となつて、再び海へ下り、卵を産むのであるが、これが即ち下り鰻である。

それ故に、夏の頃は、充分餌ばみをして、肥太つた高潮時であるから、美味であるに違ひない。和漢三才圖繪にも「冬春蟹居泥穴、至五月游出、此時味勝」と有る。古來夏の土用に、鰻の珍重せらるゝのは、誠に故ありである。たゞ丑の日に限るのは、江戸から起つたことらしく、當時名代の鰻屋神田川が衰微して來たので、贔屓客の太田蜀山人がそれを盛りかへすため、客寄せの手段として、始めたものといはれ、又一說には、それ以前神田和泉橋通の鰻屋春木屋善兵衛が、初めたものとも傳へられてゐる。いづれにしても附會の事である。

(88頁)

大田蜀山人説と春木屋善兵衛説について触れられていて、そのどちらにしても附會(こじつけ)であると断言されている。

昭和(1926年12月25日~1989年1月7日)

岩本梓石、宮沢朱明 著『新撰俳諧辞典』、大倉書店、1927年1月3日発行

東都の俗に、土用の丑日に鰻を食へば、暑氣を拂ふといふ。市中の蒲焼店繁昌す。

(354頁)

土用の丑の日の鰻食いが「東都(東京)」の習わしとして記述されている。

家庭教材研究会『母子読本:三百六十五日.尋常2学年』、博文館、1928年3月22日発行

八月

土用の鰻

日本の習慣として、土用の丑の日に鰻を食べると、夏の病氣に罹らぬといふので、其日は鰻屋が大繫昌をします。これがどういふ事から起つたかはよく解りませんが、太田蜀山といふ人が、貧乏な鰻屋を繫昌させるとて、『明日は丑の日』と書いて店先に貼らせて、こんなことを宣傳したといふ説もあります。

(124頁)

土用の丑の日の鰻食いについて、よく解りませんがと前置きした上で太田蜀山人説を紹介している。

矢部善三『年中事物考』、素人社書屋、1929年12月25日発行、1930年1月19日再版発行

七月事物篇

土用入

〇まじない二三 夏まけのする人は土用に入る日に、小豆の生を一粒と、にんにくの根を少し服用すれば暑さに中てられるといふ傳へがある。また土用に入つてから始めての丑の日に鰻を喰べれば夏の諸病に罹らぬといふ傳へがあり、寒の土用と同じやうに土用鶏卵や土用蜆を喰べれば頗る強壮になるといふ傳へもある。いろ〱附會の説もあつて、全然理由のないことゝも思へぬが、どうも保證の限りでないから省いてをく。

(180頁)

土用に食べると夏の病を避ける「伝え」らえてるものとして生の小豆、にんにくの根、卵、蜆と並んで土用の丑の日の鰻が挙げられている。

象山先生遺蹟表彰会 編『佐久間象山』、地理歴史研究会、1916年5月15日初版発行、1930年12月25日増訂再版

附録(二)

偉人としての佐久間象山先生 附、平賀、橋本兩先生の電氣機械に就て(電氣三賢遺品展覧會に於ける記念講演) 工學博士 青柳榮司

序に、雑談ながら(眞僞正否は不明であるが)土用鰻の宣傳も平賀先生が始めたものださうで、土用に鰻を食ふと身體に利くと先生が云ひ觸らした爲め、一般に土用鰻を食ふ習慣が出來たものださうであります。これは恐らく只先生の頓智に過ぎなかつたのでせうが、無意味な迷信などゝいふものは多く斯うした有様で始まるものだらうと思はれます。 (248頁)

この本は象山先生遺蹟表彰会が編纂し、大正5(1916)年に出版されたものであるが関東大震災の為に絶版となっていた。

時は移り昭和5年10月、東京上野松坂屋で開催された「電気三賢遺品展覧会」(主催:平賀源内先生顕彰会 後援:電気学会、電気協会、橋本曇斎会、象山先生遺蹟表彰会。電気三賢とは平賀源内・橋本宗吉・佐久間象山を指す)内のイベントとして三賢記念講演会が行われた。

それがきっかけとなり絶版本の『佐久間象山』は三賢記念講演会の一部等が追加されて再版される事になったが、その追加内容であるところの青柳栄司(電気工学者)の講演中の余談として平賀源内の土用鰻が出てきたという次第。収録の際に「眞僞正否は不明であるが」と付記されている。

この講演内容は『宗教的信仰と教育』(青柳栄司)にも収録されているがテキストが微妙に異なるのでこちらも参照の事。

趣味の飲食物史料研究会 編『趣味の飲食物史料』、公立社書店、1932年10月15日発行

第一章 原料及加工飲食物

第八節 水産及水産製品

鰻を割くに關西では腹からし、關東では背からする、兩者孰が可なるやに就て「鰻の脂肪と肉味ば肛門より以下尻尾の方、腹の方に片寄れるものなれば、腹より裂きて味最美の處に刀を入れんよりは、此處を避けて背より裂く方然るべしと考へらる」と云ふ美味求真の見解は、今の處最も權威があると思ふ、平賀源内が土用の丑の日に鰻を食ふものと決めたのは、前記萬葉集の歌から思い付いたと云ふが、多分それに違ひあるまい。

(210頁)

上記の平賀源内が土用の丑の日の鰻食いは万葉集から着想を得たのでは説や鰻の調理法の地域差については『美味求真』の記述に基づく。詳しくはこちらを参照の事。

市立橋本尋常小学校研究部編『われらの神田』、橋本尋常小学校研究部、1932年12月23日発行

名人名家

平賀源内

平賀源内 初めは神田舊白壁町、後に橋本町に移つて此處で死んだといはれてゐます。早くから西洋の學問がすぐれてゐるのを知つて、西洋の學問を志し長崎で西洋と貿易をしました。そしていろいろヨーロッパの機械を買ひ工風をこらして「エレキ」を發明しました。その他空中飛行機いろ〱の物を發明しましたが世間から見られなかつたのであります。又學者でいろ〱の本を書いてゐます。夏の土用の丑の日鰻を食べるといふ習慣は源内がはじめたものであるといはれてゐます。

(34頁)

神田にゆかりのある人物として平賀源内の項があり、その中で「土用の丑の日」に鰻を食べるという習慣が源内によるものと言われているとの記述がある。

金井紫雲『魚介と芸術』、芸艸堂、1933年4月25日発行

五 鰻(うなぎ)

土用鰻のこと

土用に鰻を食べると夏の病に罹らぬといひ、鰌の味噌汁、或は蜆汁などと共に食べる。丑の日といふことに就いては、種々の説があり、その一つは太田蜀山人が、當時有名な神田川の衰微に同情し、片肌ぬいで頓智を絞り、『明日土用丑の日』と看板を立てた、土用丑の日に食べると味も一層よいのだらうと遠近から客が集つて大繫昌したといふ。二は、鰌屋の春木といふ店で、土用の丑の日に鰻を壺に入れて地中に埋めたが、幾日經っても腐らなかつたといふので、丑の日と鰻との緣が結ばれたといふ説、三は丑寅の人は、鰻を食べると、その守り本尊の虚空藏菩薩の怒に觸れるが、土用の丑日だけはおかまひなしといふので、さてこそ此の日に爭ふて鰻を食べたのが、今日のやうになつたといふのである、何れが眞か今日では判然しない。

(42頁)

由来について太田蜀山人説、鰌(どじょう)屋の春木説、虚空蔵菩薩関連説の3つが挙げられているがどれが正しいかは判然としないとしている。

小原国芳 編『児童百科大辞典 1』、児童百科大辞典刊行会、1932年4月20日発行、1933年5月1日第6版発行

第五章 魚類

第一節 硬骨類

西洋人は食べ方が下手なためかあまりウナギを好まないが、我國では昔から非情に珍重され、また滋養に富んだものとして食べてゐた。「萬葉集」といふごく古い歌の本に、

「石麿に吾物申す夏瘦せによしといふもの鰻とり食せ」

といふ歌がのつている。奈良時代の大伴家持の作つたものであるが、石麿といふ人が痩せてゐるので、ウナギを食べたらよからうにと歌つたのである。

(534-535頁)

日本では古来より鰻を食べていた。「万葉集」でも夏瘦せには鰻だと歌われている…という内容の記述がまずある。

さて蒲焼の話の序に、もう一つ土用の丑にウナギをたべる習慣について書かう。いひつたへによると平賀源内といふ人がウナギ屋にたのまれて、別に意味もないが、丁度たのまれた日が丑の日だつたので、「今日は丑」といふ看板をかいてやつたところが源内先生のやうなえらい人がいふことだから何かわけがあるのだらうといふので、われも〱と蒲焼が賣れたといふのである。この話はうそかほんとかわからないが、鰻のうまいのは、十月十一月頃、鰻が河を下る時分である。すつかり肥えて卵をうみにゆかうといふ前だから、この「下り鰻」がおいしいのである。それだからまだウナギのまづいときにそれを賣らうとして宣傳したのだといふ説も一寸理屈はある。しかし夏あつい時ものがあまり食べられないで、夏やせなどをするのであるから、この時にウナギを食べることは決して悪いことではない。

(535頁)

土用の丑の日に鰻を食べる風習について、平賀源内が鰻屋に頼まれて「今日は丑」の看板で繁盛させたとされる「言い伝え」が挙げられている。

編者はこの旬から外れた不味い時期に売ろうと宣伝したからという説を「一寸理屈はある」と評価しつつも、夏痩せ対策に鰻を食べる事自体は悪くはないと万葉集の和歌も踏まえた結論で締めている。

宮崎県教育会西諸県郡支会 編『西諸県郡誌』、宮崎県教育会西諸県郡支会、1933年10月20日発行

第十二章 風俗習慣

第二節 迷信

この本は宮崎県の西諸県郡(にしもろかたぐん)についてまとめたものであるが、第十二章第二節「迷信」の冒頭に

本郡内に行はれる迷信を次に述べるが此の中には郡全体に行はるゝものもあり又一部のみに行はるゝものもあるが今は廣く本郡内の迷信を蒐集する。

(195頁)

とあり、続いてその集められた「迷信」が列挙されているがその中の「季節、暦」に関するものを見てみると

17、河童は春の彼岸に川へ秋の彼岸に山に入る

18、土用丑の日に鰻を食ふと一年中元氣

19、奇數の月は縁組を避ける

(197頁)

上記のように土用の丑の日の鰻食いがある事が確認される。

『新語新知識 : 附・常識辞典』、大日本雄弁会講談社、1934年1月1日発行

『新語新知識 : 附・常識辞典』は大日本雄弁会講談社(現:講談社)より発行されていた雑誌「キング」の第10巻第1号(昭和9年新年号)の附録である。

附録と言っても総ページ数500超えで「本書一冊で、新時代のこと悉く分ります。」(5頁)と謳われており、当時の文部大臣である鳩山一郎による序文が掲載されている(昭和9年3月に辞職)

この本の中で以下のような記述がある。

【問】土用の丑の日に鰻を食べるのはどういふわけですか

【答】昔のこと、夏になると鰻屋が不景氣になるので、或鰻屋の亭主が、懇意な平賀源内(一説に太田蜀山人ともいひます)の智慧を借りますと、『夏痩せには、土用の丑の日の鰻が神効あり』と看板に書いてくれたのが大當りで、夏の土用の二度か三度の丑の日の賣上で、夏中の商賣が出來たさうで、それが今日まで傳はつてゐるのだといふ俗説があります。日本人は夏になると淡白な食事を好み、ともすれば夏痩せになりますから、つまり脂肪分の補充のためとすれば榮養上大いに合理的な事になるのです。

(478頁)

「土用の丑の日に鰻を食べるのはどういふわけですか」という問に対し、平賀源内もしくは大田蜀山人が土用の丑の日に鰻を流行らせたとされる話が答えとして挙げられている。「といふ俗説があります」と書かれているように出典は特に示されていない。

青柳栄司『宗教的信仰と教育』、人文書院、1934年1月20日発行

偉人としての象山先生(電氣三賢遺品展覧會記念講演)

それから、眞僞や當否は不明の逸話ですが、例の土用鰻の宣傳なども平賀先生が始めたものださうで、これは恐らく先生の頓智に過ぎなかつたものを世間が眞に受けて習慣となつたものでありませう。 (164頁)

本書は電気工学者の青柳栄司(本書で挙げられている当時の肩書は「大阪帝国大学教授」「京都帝国大学名誉教授」「教化振興会理事長」)が過去に発表したものについて、宗教的信仰と教育に関するものをまとめたものである。

昭和5(1930)年10月、東京上野松坂屋で開催された「電気三賢遺品展覧会」の中で行われた記念講演の内容も収録されているが、その中で「眞僞や當否は不明の逸話ですが」と断った上で平賀源内の土用鰻について触れられている。

この講演内容は『佐久間象山』増訂再版(象山先生遺蹟表彰会 編)にも収録されているがテキストが微妙に異なるのでこちらも参照の事。

福島県女子師範学校 編『福島県郷土史』、西沢書店、1935年4月10日発行

人文篇

第十五章 年中行事

土用丑の日 早朝藥草を摘み陰干にする。うのついたもの(うしにく・うどん・うなぎ)を食べる。

(458頁)

これは福島県・中通り地方の年中行事一覧にある「土用丑の日」の説明である。「うのついたもの」を食べるとあり、その中に鰻も入っている。

丑の日 土用丑の日 湯に入る。うの字のつくものを食べる。土用中にどぢようを食べる。

(463頁)

こちらは会津地方のそれの説明である。「うの字のつくもの」として「どぢよう(鰌)」が挙げられている。

豊橋市教育会 編『豊橋の年中行事』、豊橋市教育会、1935年12月3日発行

七月

一一二 土用鰻(土用の丑の日)

夏の土用の丑の日に鰻を喰べると夏病をしないといふ。

(48頁)

日本図書館協会 編『良書百選 第5輯』、日本図書館協会、1936年3月31日発行

第五 産業

魚と水産業 田中茂穂

消費者たる一般人も水産物殊に魚類等に對する観念を修正する必要があらう。土用の丑の日の鰻が榮養に効果があるといふことは平賀源内の宣傳だといはれて居るが事實効果ありや否やは疑問視されて居る。これに反して鰯は下等な魚と考へられて居るがその榮養價は何れの魚にも劣るものではないさうである。總じて魚肉は其の榮養價について言へば鯛も鮪も鱈も鰊も鮎も鮭も略同様であるにかゝはらず慣習と嗜好とによつて優劣があるやうに考へられるとの事である。從つて消費者としてはこれ等の事情に精通し、料理法を改善して安價な魚を求める事に着眼すべきである。

(52頁)

『良書百選』は日本図書館協会が新刊図書を調査・審議の上推薦した「推薦図書」をまとめたシリーズである。その第5輯に魚類学者の田中茂穂が著した『魚と水産業』(昭和10年、叢文閣)が収録されており、その中で土用の丑の日の鰻の栄養効果について平賀源内が宣伝したとされる話に触れられている(文脈としては否定的)。

東亜書房編輯局編『人生百課事典:常識読本』、東亜書房、1936年5月16日発行

土用の丑の日と鰻

昔のこと、夏になると鰻屋が不景氣になるので、或鰻屋の亭主が、日頃懇意な平賀源内(一説には太田蜀山人とも云ひます)の智慧を借りますと、『夏痩せには、土用の丑の日の鰻が神効あり』と看板に書いてくれたのが大當りで、夏の土用の二度か三度の丑の日の賣上で夏中の商賣が出來たさうで、それが今日まで傳はつてゐるのだといふ俗説があります。しかし日本人は夏になると、一般に淡白な食事を好み、ともすれば夏痩せになりますから、つまり脂肪分のためとすれば榮養上大いに合理的なことにはなります。

(32-33頁)

この本の記述では由来として平賀源内説と大田蜀山人説が挙げられている。エピソードの末尾に「といふ俗説があります」と書かれているように出典は特に示されていない。

『家事と衛生』12巻6号、家事衛生研究会、1936年6月1日発行

伊藤春夫「鰻の蒲焼考」

毎年土用の丑の日になると、各鰻屋の店頭に掲けられる『今日は丑の日』の張札の起りは、平賀源内の座興的考案に始まる、といふ説があります。

平賀源内は一世を風靡した博學多才の人で、エレキテル機械を工夫し、火浣布を發明し、滑稽本を書き、浄瑠璃も作つたほどの才人であるが、世に容れられす發狂して殺人罪を犯し悲惨な末路を遂げましたが、この源内が非常に蒲焼を好み贔負の鰻屋を何とかして流行せてやりたく思ひ、揮毫して遺つた看板に、丁度開業日が土用の丑の日だつたので、『今日は丑の日…云々』と書いて與へたそれがうまく圖に當り、當時は源内の博識と奇行とに、事ごとに驚嘆されてゐた江戸人は、源内の事だから、故事でもあるのであらうと、譯なく『今日は丑の日』を認容したのです。

その鰻屋が評判となり他の蒲焼屋までが競ふてその看板を眞似るやうになつたといふのですが、物の起源など大概かうした偶然に過ぎぬものであるから或はこれが實際に近いかも知れません。

(85頁)

これはWikipediaの土用の丑の日記事内で出典として用いられている資料の該当記述である。

「といふ説があります」と書かれているように、それほど確証のある話ではない。

帝国教育学会 編纂『帝国百科全書』、帝国教育学会、1938年4月10日第1版発行、1938年4月20日第3版発行

第十四編 事物始原集

八 飲食物

土用うなぎは古代より用ひられてゐた。万葉集巻六大伴家持卿が吉田連石麿の瘦せたるを笑ふ歌に

石麿に吾れ物まをす夏やせによしといふ物ぞむなぎ取り食せ

とあります。むなぎとはうなぎのことであります。

(428頁)

土用うなぎは古代より用いられていると書かれているが、根拠として挙げられている大伴家持の和歌は「夏痩せ」に鰻を食べなさいと時期指定が大まかな内容なのでこれは「土用(の丑の日)うなぎ」の原型・プロトタイプとして挙げられていると解釈するのが妥当と思われる。

『帝国百科全書』では巻末に各編ごとに参考文献が挙げられているので「第十四編 事物始原集」の箇所を参考までに引用する。国会図書館デジタルコレクションで検索可能なものについてはリンクも付けた。

第十四 事物始原

(1283頁)

愛之事業社編纂部 編『現代常識新辞典』、愛之事業社、1939年6月10日発行、1939年7月1日再版

宗教と儀禮

土用丑の日には何故鰻を食ふか

凡て習慣は大した理由も根據もなく起ることが多く、御幣かつぎや洒落が後には勿體らしい習慣となつてしまふ。例へば千人針に五錢白銅を結び付けるのは、五錢は、「四錢(死線)を越えて」だからといふ洒落から來たのであるが、その洒落の判らぬ人は何かしら尤もらしい理由があるのだと思ひ、五錢白銅を結ばねばならぬやうに考へてゐる。夏の土用丑の日に鰻を食ふのにも何の理由もない。昔狂歌の名人蜀山人が、夏枯れ時で困つてゐる知人の鰻屋の愚痴を聞き、獨特の奇智を働かせて店頭へ「土用丑の日」と大書した看板を出させた。何の事だか判らない所へ却つて百パーセントの宣傳價値があつた。知つたかぶりをしたがる負けず嫌ひの江戸つ子は、「篾棒奴(べらぼうめ)、土用丑の日には鰻を食ふべしとチヤーンと物の本に書いてあるのを知らねえか」などと馬鹿なことを云ひながら、負け惜しみで、うまくもない鰻を食つた。これが起源である。或る學者が大いに萬卷の書を漁つて研究したが、土用丑の日に鰻を食べねばならぬ理由も習慣も何處にも見當らなかつたので或る日蜀山人に聞いてみると、「なアにね、江戸つ子物見高いからね」といつて澄してゐた。一旦かういふ習慣がついてしまふと、負け惜しみの江戸つ子は借金を質においても鰻を食べ、どうしても鰻に手の届かぬ者は、形が似てゐるからといふので、鰌を食べた。そして遂に今日のやうになつてしまつたのである。

(731-732頁)

土用丑の日の鰻食いの起源は太田蜀山人であると書かれている。

桜沢如一『ウナギの無双原理 : 新しい立身出世の秘訣』、無双原理講究所、1941年10月18日発行

一二、ウナギのしゆん(季節)

この本は桜沢如一(マクロビオティックの提唱者として知られる)による「無双原理の研究」シリーズの第7篇である。その中の「一二、ウナギのしゆん(季節)」の記述の一部は以下の如し

ウナギは下りに限ると通な人は云ひます。無双原理から見ても夏へ向ふ陽性な季節に動物性をとるより、陰性な冬へ向ふ季節にとる方が賢明でもあり、自然でしたがつておいしいわけです。下りウナギは陰極つたウナギです。だから動物性(陽性)にはちがひないがその中でも最も陰性なわけで、つまり陽過多になるのを免れるのです。

土用のウシの日にウナギを食ふのは、夏の暑いさかりに海の魚なんか食べる氣がしない時をねらつて賢いウナギ屋さんが、通人がウナギを賞用し、宣傳したからでせう。丑の日に限つたのは「七日の七草」式記憶便法でせう。卯の日でもよい譯です。あるひは夏の賣行きの少いときに丑の日に食ふと達者になるなどゝうまく宣傳したのが始まりかもしれません。蜀山人平賀源内が或るウナギ屋の爲に思ひついた繁榮策だとも云はれます。

(29-30頁)

土用の丑の日の鰻食いについての推測・考察の後、大田蜀山人説と平賀源内説について軽く触れられている。

南洋団体聯合会 編『大南洋年鑑 〔昭和18年版〕』、南洋団体聯合会、1943年8月22日発行

第二編 南洋總覽

第六部 南洋の文化と厚生

『大南洋年鑑』は太平洋戦争勃発後の「大南洋諸地域」(フィリピン、オランダ領東インド、マレー、スマトラ、仏領インドシナ、タイ、ビルマ等)における諸事態(本書で言うところの「大東亜建設の大業」の進行・発展)についてまとめられた年鑑である。

本書の第二編第六部「南洋の文化と厚生」の中の「8.南方熱帯圏の衣食住 第三、食物に就いて 三、熱帯食に油脂を多く使用する理由」での記述を見ると

日本に於ても、夏の土用の丑の日に鰻を食ふ風習は碩學荻生徂徠の説く處より起つたのであるが、これも日本の夏とは言へ淡泊な食物のみを攝る夏の盛りに鰻の形に於て、脂肪とビタミンADとを國民に攝らせる方便であるのに思ひを致すなら南方の熱帯地に於て脂肪の必要なることが判るであらう。

(608-609頁)

土用の丑の日の鰻食いについて儒学者の荻生徂徠(1666~1728)がその由来であるとする珍しい説が書かれている。

檜山義夫『魚の話』、主婦之友社<うち中で読む科学の本4>、1948年6月21日発行

ウナギ

土用の丑の日

昔から夏の土用の丑の日には、ウナギを食べるものとされています。あるいはまた、その日に食べると、體によいということも言います

ウシとウナギとは、ウの字のつくくらいしか縁のない動物で、どうしてウシの日にきまつているのかとお尋ねになつても、私にはよくわかりません。ただ、この由來因縁について、ものの本に書いてあるところによると、こういうわけです。

昔、江戸に、平賀源内という學者がいたのだそうです。その當時、江戸のウナギ屋が、夏になるとウナギが死んで、商賣がうまくゆかなくて困つたそうです。―このウナギというものばかりは、生きているやつを、キュッと針をさしておいて、ツウーとさいていかないと、カバヤキはできない。死んでしまつては、夏のことでもあるし、どうにもならないのです。

それで思案投首のていで、源内先生に相談しました。ところが源内先生、心得て、江戸の町じゆうに、土用の丑の日にウナギを食うと體によい、と言いふらしたものだそうで、なんでも源内先生のいうことだからといつて、それからそれへと傳わつて、おかげでウナギは人氣が出て、今日あるを得たのだそうです。まあ、今でいうなら、さしずめウナギ屋組合の功勞者というわけでしよう。

その源内先生も、土用の丑の日というのは、いい加減のあてずつぽうをいつたのかもしれませんが、しかし『萬葉集』にも、

石麻呂にわれもの申す夏やせによしといふものぞむなぎとりめせ

という歌があつて、古くから夏やせに薬効のあることをいつていますから、こんなことに理由をつけたのでしよう。(ムナギはウナギの古名です。)

(85-87頁)

「ウの字のつく」という記述はあるが、それが体に良いという話ではなく、著者にはウシとウナギの繋がりがそれしか見いだせないという内容である。

由来については著者は『ものの本(詳細不明)』を出典に平賀源内説を紹介している。

なぜ「土用の丑の日」なのかについては『ものの本』にも記述がないようで、著者は万葉集に収録されている大伴家持の和歌が根拠なのではないかと推測している。

木村小舟『物知り先生:常識百科.夏から秋え』、話の友社、1949年10月20日発行

第五回 藻海の神秘

話はまた変わるが、むかし江戸のさる蒲焼屋、どうしたことか一向に客足がつかぬ、場所柄は悪く無いけれど、門外雀羅を張るのさびれ方で、閉店一歩前の苦しさは、どうにも方法が立たない。とつおいつ、思案投げ首の末に当時名うての蜀山人を訪ね、お智慧拝借と出たもんだ。と山人は理由をきいて「う、そうか、よし〱、明日は丑の日だね」と、ひとり頷いて、素早く得意の一筆をさら〱「さ、これを明日の朝、店頭に張って置きなさい」渡されたのを何かと見れば、山人一流の筆蹟で、「今日は丑の日」の六文字、意味は分からないが何れ客寄せの呪だろうと、有難く押し戴いて、さて翌朝の未明に、店先の目立つ所に張り出した。

何しろ一風変った山人の筆蹟は、その頃府内の評判なので、通りがかりの誰彼が、足を留めて眺め入る、物見高いは江戸の習い、三人、五人、十人、廿人、見る〱店頭に黒山を築く、旨そうな蒲焼の香は、芬〻として人山の鼻〻〻を衝く。と、また誰の口からともなく、さも知ったかぶりに「今日は土用の丑の日だ、この日にウナギの蒲焼を食えば、夏負けをせぬ、夏やみを免れる、蜀山先生の筆に何の誤があろう」と、客の方から勝手に宣傳して、いきなり店内え突入する群集心理は不思議なもので、忽ち五人十人二十人、階上階下すし詰の大入満員物の見事に図に当って、目の廻る忙しさを演じた。かくて江戸では土用の丑の日に、必ずウナギを賞味するという、奇妙な習慣が起こったとやら。去年の初夏に東京の魚屋が聯合して、ウナギ供養を催したというが、蜀山人の頓才にも、また感謝すべきではあるまいか。

(55-57頁)

江戸で「土用の丑の日」に鰻を賞味する風習について、その由来が太田蜀山人による旨が書かれている。

『町報わのうち』第164号、岐阜県安八郡輪之内町役場、1968年7月5日発行

うなぎの厄日

ことしの土用の丑の日は、月末の三十日です。

この日にうなぎを食べるという風習は、江戸時代の俳人、蜀山人(太田南畝)がはじめとか、あるいは平賀源内の発案によるものとかいわれます。

ともかく、いまでは全国的にこの日が「うなぎ」にとって、たいへんな厄日になっております。

(5頁)

『広報わのうち』は岐阜県安八郡輪之内町で1954年より発行されている広報誌である(1968年当時の誌名は『町報わのうち』。時期によって『輪之内町報』『広報輪之内』『広報わのうち』と誌名が変化している)。1968年7月発行の第164号では7月の話題として「土用の丑の日」が取り上げられ、その由来について大田蜀山人(大田南畝)説と平賀源内説が挙げられている。原文では「太田南畝」となっているがそのまま表記する。

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